20040407句(前日までの二句を含む)

April 0742004

 けろりくわんとして柳と烏かな

                           小林一茶

語は「柳」で春。「梅にウグイス」や「枯れ枝にカラス」ならば絵になるけれど、「柳にカラス」ではなんともサマにならない。しかし、現実には柳にカラスがとまることもあるわけで、絵になるもならぬも、彼らの知ったことではないのである。ただ人間の目からすると、この取り合わせはどことなく滑稽に映るし、両者ともに互いのミスマッチに気がつかないままキョトンとしているふうに見えてしまう。その様子を指して「けろりくわん」とは言い得て妙だ。眉間に皴を寄せて作句するような俳人には絶対に詠めない句で、こういうところに一茶の愛される所以があるのだろう。柳といえば、こんな句もある。「柳からももんがあと出る子かな」。垂れている柳の葉を髪の毛のように見せかけ、誰かを驚かそうと「ももんがあ」のように肘をはりながら「子」が突然に姿を現わしたというのである。「お化けだぞおっ」というわけだが、むろん怖くも何ともない。しかし一茶は、しなだれている柳の葉を頭髪に見立てた子供の知恵に感心しつつ微笑している。このあたりにもまた、芭蕉や蕪村などとは違って、常に庶民の生活に目を向けつづけた彼の真骨頂がよく出ていると言えよう。一茶という俳人は、最後までごく普通の生活者として生きようとした人であり、芭蕉的な隠者風エリート志向を嫌った人だった。どちらが良いというものでもなかろうが、俳句三百年余の流れを見ていると、この二様のあり方は現代においても継承されていることがわかる。そして、とかく真面目好みの日本人には芭蕉的なる世界をありがたがる性向が強く、一茶的なるそれをどこかで軽んじていることもよくわかってくる。が、それでよいのだろうか。それこそ真面目に、この問題は考えられなければならないと思う(清水哲男)




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